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日本人の死に時 - そんなに長生きしたいですか (久坂部羊) 。自分の死を考える生き方

日本人の死に時 - そんなに長生きしたいですか という本をご紹介します。

 

 

エントリー内容です。

  • 本書の内容
  • 本書の問題提起
  • 自分の死を考える生き方

 

本書の内容

以下は本書の内容紹介からの引用です。

何歳まで生きれば "ほどほどに" 生きたことになるのか?

長寿をもてはやし抗加齢に踊る一方で、日本人は平均で男6.1年、女7.6年間の寝たきり生活を送る。多くの人にとって長生きは苦しい。人の寿命は不公平である。だが 「寿命を大切に生きる」 ことは単なる長寿とはちがうはずだ。

どうすれば満足な死を得られるか。元気なうちにさがしておく 「死ぬのにうってつけの時」 とは何か。数々の老人の死を看取ってきた現役医師による "死に時" のすすめ。

 

本書の問題提起


人工的に長生きさせるデメリット (死ねない苦しみ)

この本に書かれていることの出発点は、人工的に無理やり長生きさせることのデメリットです。

医療技術や体制が発達した現代は、あらゆる生理機能を人工的に補助することができます。食事、呼吸、循環、排泄です。

本来は寿命を全うしているにもかかわらず、無理やり生かされている、そのために死ねない苦しみを味合わせていると著者は指摘します。医療が発達した影で、人は自然な形で死ねなくなったと言います。

例えば食事です。高齢者は自分で食べられなくなっても、鼻から管を入れて栄養を与えることができます。鼻以外には、胃瘻 (いろう) というお腹に穴を開けチューブを通し、胃に直接に水分や栄養を補給することが可能です。

胃瘻をされている高齢者が、チューブを不快に感じで抜こうとすると、患者の手をベッドに縛り付ける対応もされるそうです。死に際になると体力が衰え椅子にまともに座ることもできなくなります。それでも食事の際はリクライニングで起こし、時間をかけて食事を与えます。本人はなされるがままです。

本書では多くの高齢者の様子が書かれています。読んで感じるのは、無理やり生かされ死ねないことによる苦痛です。

無駄な延命治療をやめ、自然な寿命を全うせよ

本書の問題提起は、無駄な延命治療をやめることです。そして、自然な寿命を全うする、自然に死を迎える生き方をすることです。

無駄な延命治療とは、先ほどのような胃瘻などの経管栄養を与え、強制的に生かすことです。無理やり延命治療をするのではなく、「死を支える治療」 に転換すべきと著者は言います。

死を支える医療とは

死を支える医療では、余計な治療をしません。

寿命を超えてまで無駄な延命治療をせずに早く死を迎えてもらうことは、患者を見捨てることではありません。無理やり生かされることによる苦しむ時間を短くすることです。

死を支える医療では、臨終を迎えようとしている患者を励ましたり、命を少しでも延ばそうとはしません。寿命が訪れ死が避けられなくなった時、可能なかぎり望ましい形で迎えられるようにすることです。本人の苦痛を減らしてあげ、残される悔いを少しでも減らすことが目的です。

食べないから死ぬのではなく、死ぬから食べなくなる

著者は、死を人工的に延ばすのではなく、自然に任せれば、苦しまずに死ねると言います。自然な死に時で寿命を全うすることです。

本書に書かれている死ねない苦しみを読んで思ったのは、「食べないから死ぬのではなく、死ぬから食べなくなる」 ということでした。

死に時が近づき、消化や排出機能が衰えるのは自然なことです。人工的な長寿を無理やり成り立たせるのではなく、天寿としての自分の寿命を全うし、自然に任せるという生き方です。

 

自分の死を考える生き方

自分の死を考えることは、死に時や死に方をだけ考えるのではありません。死ぬまでの 「生き方」 を考えることです。

生死は表裏一体

人は誰しもがいずれは死にます。本書を読んで考えさせられたのは、生きることと死ぬことの表裏一体になっていることでした。

命の有限性を自覚し、今の生き方でいいのかと自問し、もし肯定できないのであれば軌道修正が必要です。

夜寝る前に、今日一日、明日死んでもいい生き方ができたかと思い返し、我が身を正し、翌日も無事に目が覚めるなら、それをを踏まえて精一杯生きることです。人生の最期の一日まで繰り返すことができれば、充実した一生になります。

時間の使い方

精一杯生きるためには、今という時間をどう使うかです。

本書で印象に残ったのが、著者と父親の時間についての会話でした。以下は該当箇所からの引用です。

父がかつてこんなことを言っていたのを思い出しました。

 「時間というものは、有効に使おうと思えば思うほど、足りなくなる」

まだ若かった私が、あくせく働いたり遊んだりしているのを見て、言った言葉でした。それを聞いて、私ははっとしました。私は時間を無駄にするのが嫌いだったので、いつも時間を有効に使おうと考えていました。なのに時間はいくらあっても足りない。有効に使えば余るはずだろうに、おかしいじゃないか。

父はさらに、こうも言いました。

 「時間は、無駄にしてもいいと思った瞬間、ゆったりと流れ出す」

それもまた事実でした。無駄にしてもいいと思えば、一日でも一時間でも、一分でさえ、ゆったりと流れます。

 (引用:日本人の死に時 - そんなに長生きしたいですか)

 

時間についての著者の父親の言葉は、示唆に富みます。

有効に使おうとすればするほど忙しく感じ、ますます時間が足りないように思えます。一方、始めから余裕を持ち、少々の時間は無駄にしてもいいと割り切ると、時間はゆっくりと流れるように感じます。

そう考えれば、一見すると無駄に思えることに時間を使ってみる、あえて非効率なこともやってみれば、ゆったりと流れた時間は有効に使えるのではないでしょうか。

健康であることは 「手段」

本書を読んで思ったのは、健康とは何かです。

本来、健康とは人生を豊かに生きるための 「手段」 であるはずです。健康は、自分がしたい生き方を実現するために必要なことです。健康自体は目的にはならないはずです。

しかし、いつの間にか手段である健康が目的そのものになっていることに気づきます。生き方という目的がないのに、手段である健康だけを追い求めていないでしょうか。

著者が本書で問題提起する 「無駄な延命治療ではなく、自然に任せて死を迎える」 にもつながります。